新旧
書くことができないということはそういうテンションではないということなのだろうか?
それでも書き出してしまえるところにこの文章の意味があるのかもしれない。
書き出せないのに書くことができるということ。
それを追求していくと何かが生まれる。
ずっと書き続けてきてその方向性が見えてきた。
最近は時間もズレてきて、また巻き直さなければいけない。
わからない状態でこのままいくのだろうか?
描き方の加減である。
だからこそわからなくなってしまうのだろうし、自分の道を見失ってしまうのだろう。
その背景を見て取ることができればだいぶ違うのだろう。
新しいも古いもないのかもしれない。
自分のやりたいことだけをやっていても飽きてしまうということがわかってしまった。
そこから追及していくものの自分の方向性がわかればもっと自由にモノが書ける。
何も見えていない状態での文章とは本当にわけのわからないものなのかもしれない。
わけがわからないまま書き始めると最後までこんな文章を書き続けてしまう。
それは物語にしても同じことなのかもしれない。
自身で把握しきれないまま最後まで行ってしまうということなのかもしれない。
そこには何も面白みを感じることはできない。
再起
意外と描くことができている。
意外と描けるものなのかもしれない。
季節や天候も関係しているのかもしれない。
とりあえず描けるものを描くしかないのだろうし、書けるものを書くしかないのだろう。
けれども絵と文章を作ることでとりあえずの落ち着きを取り戻すことができる。
ゲームも再開することができた。
生きることだけでは飽きてしまう。
作ることで時間をつぶそうとする。
その中でどんどん趣向を変えて出来上がってくるものが変わってくる。
それは自分自身の考え方を変えるものでもある。
だからこそ続けることができるのかもしれない。
ゲームだったら最長でも2週間が限度である。
そう考えると書くことや描くことは意外と続く。
そこにはやはり出来上がったものにしか味わえない達成感のようなものがある。
エベレストに登った者が別の新しい何かを見つけ出すように、そこには別の何かが介在しているとしか思えないようなものがあるのかもしれない。
そして共に見つめ続けることができる。
やりたいことだっていろいろとできてきた。
二重窓の件もそうだしゲームだってそうだ。
書くことや描くことによって新しい発見をもたらしているのかもしれない。
それは忘れてもまたやり直せばいいのである。
だからこそやり続けることができるのだろうし、元の場所に戻ることができるのかもしれない。
一つの過程として
この文章と物語はどう違うのだろうか?
私小説とその反対の物語はどう違うのだろうか?
結局は他人が読んで面白いと思えるかどうかなのかもしれない。
その面白い文章とはいったいどういうことなのだろうか?
作っていても全くわからない。
理解することもできない。
書いていて面白いときは面白い文章を書いているときである。
面白い文章とは書いていて面白いときなのかもしれない。
しかし日によって浮き沈みがある。
書けない時にどうやってやり過ごすことができるかでその人の全文章が違うのではないだろうか?
だから毎日書いているといってもいい。
絵に対しても同じ考えがある。
文章のほうが書きやすい。
この差はいったいなんだろうか?
責任を持つことができないから楽だと感じることができるのかもしれない。
そして絵だと責任を感じてしまう。
文章だとその場所から始めることができる。
一つの過程としてようやく自分自身を見つめることができるようになってきた。
もう少しすればこれも新たな進展として見直すことができるのではないだろうか?
そう考えるとやはりつらくても文章を書くことは大切なことだと思うことができる。
その人と本人との文章との関係は大きく関係しているのだと思う。
やらなくていいこと
やれていないソフトがザクザク出てくる。無理して買う必要もないくらい大量のソフトが出てきた。そういえばやれていないソフトがたくさんあったのである。今日また買ってしまったのだけれども買う必要は全くなかった。あと三日分は余裕でできると思う。ということで解決したわけである。
それでも久しぶりにたくさん歩くことができたので少しホッとしている。やはり体を動かすことは大切なことだということが分かった。散歩ぐらいしかできないけれども天気のいい日に外を歩いているとそれだけでよかったと思うことができるということが分かったわけである。
寄り道しなければ大体2時間くらいで新宿に行けるということが分かったわけである。自転車があればもっと行動範囲が広がるのかもしれない。2時間あれば山手線の向こう側まで行くことが可能である。となるといろいろと考えることも変わってくるのではないだろうか?今回のゲームの件も見えないところにあったから気づくことができなかったわけであって。
世の中には目に触れないことには気づけないことがたくさんあるということが分かったわけである。実際に足を運んで自分の目で見たことによってその人にしか考え付かない発想が生まれることだって十分に起こりえるわけである。いつの間にか自分自身を狭い檻の中に閉じ込めてしまっていたのである。
宙に浮いた状態
今日もギリギリの状態で書いている。10日にまた出発ということなのでそれまでどうやって時間をつぶすかだけを考えて生きていかなければいけない。明日は晴れるということなので少し遠出しようと思う。けれどもどうするかはまだ決まっていない。何とか今月も生き延びることができたのでほっとしている。
けれどもずっと待ち続けている今の状況はなかなか酷である。おまけにいろいろと時間をつぶすにしても限界がある。本当にやりたいことなど何もない状況でいったい何をすればいいのだろうか?とりあえずあと今日を入れると五日間あるわけだけれどもその間に何をすることができるのだろうか?
二重窓を作るというのもありなのかもしれないと思っている。これが今年最後のDIYになりそうである。カーテンも高いし、本当にギリギリの状況下でいかにして効率化を図るべきなのかわからない。いずれにしても待っているという状態がつらくてたまらない。でもゲームをするとすぐに飽きてしまうわけだし。
なぜゲームを続けることができないのだろうか?飽きているのとは違うのかもしれない。単純に集中力がないだけなのかもしれない。不安でたまらない。こんなことをやっている場合ではないという気持ちでいっぱいだ。でもだからと言って何をするかというと何も出てこないのだけれども。
生活のリズム
どんどん時間がズレてくる。ゲームで立て直しを図ろうとするが何をやっても集中することができない。ノルマもくそもない。とうとうやってきてしまったのだろうか?自分にもこの辛い状況が。時期的には一番、過ごしやすいのに全く何もやる気が起こらなくなってしまうのである。
縛りがなくなってしまうと途端にやる気が起こらなくなってしまう。これは悪い癖である。途端に孤独がやってくる。ここで書くしかできないことなのだろうか?孤独とは状態をいう。そして症状を言う。しかし手段や対抗策はない。けれども何かをすることができるはずである。
一つには別の趣味を見つけることなのかもしれない。しかしほかのことをやるにしても手がつかない。すべてのことに対して集中することができない。けれども布団に入ると目が覚めてしまう。つらいと思っているのは自分だけなのかもしれない。けれども書いていても全く何も解決されることはない。
ネットサーフィンしていてもすぐに飽きてしまう。何をやっても楽しむことができないのである。時期的なこともあるのかもしれない。やはり寒くなって元気がなくなったというのもあるのかもしれない。周りを見ることができない。このまま何もできなくなってしまうのだろうか?
他人の人生訓
しばらく書くことができなかった。書けなくなってしまうとなぜ書けなくなったのかということについて考えてしまう。けれどもそんなことに本来は意味はない。書かないから書かれないだけだ。自分が書かなければもちろんブログに文章が載ることはない。それでもやはり考えてしまう。なぜ書いているのかということを。
こんな風にして書いていること自体が間違ったことなのではないだろうかと考えてしまうことがある。書くこと以外のことをすれば自分は何をやるにしてもいずれかの何かを得ることができるはずなのである。けれどもそれをやろうとしない。それはあきらめの気持ちと同じなのではないだろうかと思ってしまうのである。
自分は人生に対してあきらめたくないという気持ちがある。親父にしても叔父にしても自分で何をやったわけでもないのに人生に対して悲観した態度で子供に愚痴をぶつけるような奴にだけはなりたくないと思っている。それはつまりは何もしない男の負け犬の態度であると思っているからだ。
結局は一人で考えなくてはならない。アドバイスなんて結局はその人の考えの押しつけなのであって自分自身で自分の人生を構築していかなければいけない。道徳も自己管理も人生設計もすべて自分で考えなくてはならないのである。RPGとは違う。自分の人生である。何もできないのは他人の人生訓に振り回されてしまうからだ。