他人の人生訓

しばらく書くことができなかった。書けなくなってしまうとなぜ書けなくなったのかということについて考えてしまう。けれどもそんなことに本来は意味はない。書かないから書かれないだけだ。自分が書かなければもちろんブログに文章が載ることはない。それでもやはり考えてしまう。なぜ書いているのかということを。

 

 

 

 

こんな風にして書いていること自体が間違ったことなのではないだろうかと考えてしまうことがある。書くこと以外のことをすれば自分は何をやるにしてもいずれかの何かを得ることができるはずなのである。けれどもそれをやろうとしない。それはあきらめの気持ちと同じなのではないだろうかと思ってしまうのである。

 

 

 

 

 

自分は人生に対してあきらめたくないという気持ちがある。親父にしても叔父にしても自分で何をやったわけでもないのに人生に対して悲観した態度で子供に愚痴をぶつけるような奴にだけはなりたくないと思っている。それはつまりは何もしない男の負け犬の態度であると思っているからだ。

 

 

 

 

 

結局は一人で考えなくてはならない。アドバイスなんて結局はその人の考えの押しつけなのであって自分自身で自分の人生を構築していかなければいけない。道徳も自己管理も人生設計もすべて自分で考えなくてはならないのである。RPGとは違う。自分の人生である。何もできないのは他人の人生訓に振り回されてしまうからだ。