淘汰の法則

集団の見えない敵が姿を現す瞬間がある。

群衆の暴動がそれだ。

ネットでの炎上事件もそれに当たる。

学校でのいじめもそうだろう。

善悪が引き合いに出されることがある。

これは人間の行いとして、善くないことだと世間での評が下されている。

にもかかわらず、それらが無くなることはまずない。

いじめによる自殺は絶えないし、ネットでの炎上事件も無くなることはない。

 

 

 

 

それは法律では裁かれることのない犯罪と言ってもいいのかもしれない。

犯人を断定することも難しい。

そして恐ろしいのは、いつの間にかその事件の加害者として自分自身も加わっている瞬間が発生するということである。

いじめはよくないと非難する人が知らぬ間に加害者としていじめている側に回っている瞬間があるのである。

 

 

 

 

いじめや炎上などという言葉に置き換えることのできない差別意識でもある。

多勢が無勢に排外行為を加えることは世の常としてもずっと存在してきた。

自然の法則が形となって人間社会でも生まれてしまうのである。

そしてネットによる攻撃は世界中を駆け巡る。

言葉や手数や品を変えても、どこまでも続くのである。

 

 

 

 

 

次の瞬間には被害者にも加害者にもなりうるのである。

それは人の鬱憤を晴らす行為として存在しているのである。

八つ当たりというよりもストレス解消として存在しているのである。

 

 

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