観察
物事を深く観察することができる人はすごい。
自分は観察することができない。
物事の表面的なところしか見ることができない。
観察することができる人はその前後を見て取ることができる。
そして内面を見て取ることができる。
風景などを見てもそこから何かを別の何かを見出すことができる。
自分は風景などは3分も見られない。
人の物事の捉え方は文系や理系で分けることはできない。
そもそも文系や理系で物事を分けることなんて間違ったことだ。
観察することができる人というのは文章に対しても考え方が違う。
文章を書くときに相手の捉え方まで想像することができるのではないだろうか?
例えば日常の中ですでに存在しているものに対して新しい解釈を下すことができる人がいる。
例えば書籍の古典に対してだとか空気の成分に対してだとかの捉え方が違うのである。
新しい解釈でさらには全ての人が納得できる答えを考えることができるのである。
そういう人たちの言葉を聞いていると人々は納得してしまうのである。
宗教に関しても同じことが言えるのかもしれない。
初めからあった、ものの考え方が独自の解釈によって人々の合意を得て集団化していく。
多数に浸透してしまう。
そして人々はのめり込んでしまうのである。
新興宗教の出来上がりである。
その人が例え間違ったことを言っていても聞いている人たちは、その言動全てを受け取ってしまうのである。
それは怖いことである。
けれども当人同士の関係性をほかの人たちはどうこう言うことはできないのである。