文章の不思議

文章って変わってる。

文章事態をパッと見ても理解することはできないのに読んでいくと理解することができる。

日本語を理解している人にしか読むことができないということも不思議だ。

読むことができる人はかなり限られている。

さらには当たり前のことだけど、読もうと思わなければ読むことはできない。

嫌いな人の文章であるなら、なおのこと読もうとは思わない。

 

 

 

 

映像や絵とは違う。

音楽や声とも違う。

勝手に目や耳に入ってきて情報を置き去っていくものとは違うのである。

読もうと思うのであれば、その人の意思が必要になってくるのである。

ただ文字を目で追っても理解することはできない。

読む順番もあるし読み方もある。

そして一人でも読むことができる。

その文章は持ち運ぶこともできる。

 

 

 

 

その文章がその人の人生を変えることもある。

僕自身は人が別の人生を歩むことになる瞬間に出くわしたわけではないのだけれども。

それでも読書から何かしらの影響は受けているはずである。

文章は書こうと思っても書くことはできない。

正確に言うと書くことはできるが自分の思った文章が書くことは難しいということだ。

 

 

 

 

これまた当たり前の話だけど文章は読むだけでなく書くこともできるのである。

もちろん日本語を書くことができる人だけが日本語の文章を書くことができる。

書くことにもいろいろな手段がある。

口述筆記、パソコン、筆、などなど。

それは伝えるための文章もあれば自分自身と会話するための文章でもある。

 

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